名古屋学院大学で上映をしていただきました。たくさんの学生さんたちがご覧くださり、感想を寄せてくださっています。その中から、先生のお許しを得て、いくつか言葉を紹介させていただきます。若い柔らかいこころに、しっかり紺野さんの姿が刻みこまれているのがわかります。簡単ですが、各々に簡単なコメントをつけました。

「今回の映画を見て、ブラジルの人々のつながりとかあたたかさを知った気がします。

紺野さんは、自分が歩んできた歴史をたくさんの人々に会って、その時どんな気持ちだったかとかいろんな事を考えながら、旅するすがたを見て、とてもうらやましく感じました。自分もこれからどのように生きていくかわかりませんが、紺野さんのように最後に良い思いでになっていけばいいなと思いました。

また、ブラジルからの出かせぎで日本に来る人々が実際にどのような問題に直面しているのかを見て、日本でも援助というか少しでも手助けができないか考えていかなければならないと感じました。国は違っても、同じ人間なのだし、もっとお互いに尊重していくべきだと思います。

紺野さんのような、二つの国がこれからどうあるべきか考えられるような人がふえればいいと思います。」

お若いのにすでに自分が年を重ねた時にどうありたいかを考えておられるのに驚きました。二つの国からはじめて、紺野さんのように「地球を宇宙から眺める」ような視点をも持てるようになりたいですね。

ブラジルの人たちはおおらかで暖かい人が多いです。ぜひお友達を作ってください。

「まず、19歳の時に、紺野さんがブラジルに渡ったことに驚いた。

たくさんの人が希望を持って、朝鮮やブラジルへ渡って行ったのに、会長はいい加減だと思った。
そんな仕事はなかなか上手くいかなかったのに、粘ったから、いい生活が送れたのだと思った。
年に1ヶ月、日本に来る時に、ブラジルから日本へ「デカセギ」に来ているブラジル人宅を訪ねる紺野さんは、まるで家族のようにふるまいだった。

また、アドバイスの中に、「10年は我慢し、そしたらブラジルで働かなくていい」という考え方も、今まで紺野さんが苦労したり、いろんな経験をしてきたからこそ、言えることだと思った。紺野さんの力強く生きる姿を見て、元気をもらいました。」

19歳で、見ず知らずの土地に一人で乗り込んでいく決断をするなんて、現代ではなかなか考えにくいことです。紺野さんがブラジルに渡られた1936年は、満州事変や東北大飢饉の年でした。戦争が迫り、大不況の中、せっぱつまった社会状況だったこともあるかもしれません。紺野さんの行かれた旧制中学の同級生が彼も含めて3人、ブラジルに渡られたそうです。

「この移民の問題は、不景気の影響ももちろんあると思うし、ブラジルに帰るとか、いろいろな問題は山積みだと思う。

しかしこの根底にあるのは、”私は何ものなのか。何人として生きるのか”ということだと思う。10歳以上になるとブラジル人でも日本人でもなくなるという言葉であったり、生きる土地を変える⇒生活そのものを変えるという事を当たり前のように話したりしている。(話さなければ、決めなければいけない)といったことが、誰として生きるのか、という迷いだったり、本当はこう生きたいのにできないという葛藤だったり、マイナスな面が多くみられた。子どもの半分しか中学校にいかないという問題もここにあるのではないか。人が人として生きる為には、必ず土地(home)がいる。それを確立する為に動かなければいけない苦労を私たちは知らなければいけないと思った。

この問題を様々な視点から見つめ、調べていきたいと思った。」

一度直接お話してみたい感じです。移動すると、外から何者かを問われ、また、自分自身も自問自答しますが、実はどこにいてもそれは問われているのだと思います。葛藤や悩みはマイナスだとも言えますが、それは考え、人生を深める機会を与えられることでもありますね。ぜひリサーチを進めてください。